かつて「きれる中学生」という言葉がマスコミをにぎわしたことがありましたが、最近はほとんど聞かなくなりました。
 それじゃ、「きれる中学生はいなくなったのか?」というと、もちろん、そんなことはありません。
 相変わらずちょっとした注意で、きれる中学生はいます。
 ただ、教員の対応が変わっただけです。
 つまり、
 「きれる」ような指導を避けるようになったのです。
 生徒がきれることで、そのあとの生徒指導や事後処理が多岐におよんでしまうので、そうすると、関連する多くの生徒や保護者、同僚教師の手をわずらわせることになってしまう・・・という判断が優先されるようになったのです。
 だったら、生徒が「きれる」手前で、指導の方法を変えたり、指導者を変えたり・・・ということになってきたのだと思います。

 これが、果たして指導される生徒にとって良い状況なのか?
 私は常日頃、一人で考えていました。同僚ともきちんと話し合うことなどできません。なんせ、やるべきことは山のようにありますし、それをこなすためには、「生徒指導問題」はない方がいいに決まっています。

 しかし、今、マスコミで報じられている「あおり運転の結果起こってしまった事件の裁判」を見るにつけ、「きれる中学生」を思い出さずにはいられませんでした。
 「感情」のコントロールは大人でさえ難しいものです。思春期の中学生ならなおさらですが、「きれたもん勝ち」のような経験をもたせたまま、社会に送り出すのはとても危険だと思うのです。
 教師の仕事の根本は「学力」なのか、「社会人」としての適性なのか・・・・・?
 もう一度、最初から考え直す時期はとっくに過ぎていると思うのです。